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Maserati Origins and Alfieri Brothers

マセラティの始まり

1914年12月、ボローニャ中心部のペポリ通りに小さなワークショップ『ソシエータ・アノニーマ・オフィチーネ・アルフィエーリ・マセラティ』が誕生した。ここにマセラアルフィエーリ・マセラティ率いるマセラティ兄弟によるスポーツカーメーカー、マセラティの歴史がスタートした。

マセラティ兄弟とトライデントの誕生秘話

アルフィエーリは、鉄道技師であったルドルフォと妻カロリーナの元に四男として生まれた。カルロ(1881年)、ビンド(1883年)に続いて誕生した三男はアルフィエーリと名付けられたが出生後すぐに亡くなったため、1887年に生まれた彼が四男としてアルフィエーリの名を受けついだ。続いてマリオ(1890年)、エットーレ(1894年)、エルネスト(1898年)という7人でマセラティ兄弟は構成される。

長男カルロは自転車、バイクの開発に若くして関わり、レース活動に熱心であった。フィアットにてメカニック、テストドライバーとしてのキャリアを積んで実績をあげ、弟のアルフィエーリをミラノに呼び寄せ、イソッタ・フラスキーニの自動車事業へと加わった。

このときアルフィエーリはまだ16歳であったが、自動車の開発とレース活動への深い関心が兄弟の間で共有された。ちなみに兄弟の中でマリオは自動車事業には関与せず一人画家の道を志し、後に彼はマセラティのシンボルとなるトライデントのロゴマークを描くことになる。

レースへの参戦とティーボ26の鮮烈なデビュー

第一次世界大戦終結と共に兄弟達は新たにボローニャのレヴァンテ通りへファクトリーを構え、レースマシンのチューニングに勤しみ、レースに参戦した。しかしポテンシャルの低いマシンの限界を感じたアルフィエーリは古巣のイソッタ・フラスキーニよりシャシーを購入し、自らの設計でマシンを作り始めた。その頃にはビンド、エルネストも社に参加し、レース界においてマセラティの名前が知られ始めた。

ディアット社のレース部門におけるコンサルタント業務が、当時のマセラティにとって大きな比重を占めていたが、そのディアット社は資金不足の為、レース事業からの撤退してしまう。そこでアルフィエーリらはそれまで取り組んでいたディアット30スポーツをベースにマセラティの名の付いた第1号車となるティーポ26を完成させた。デビュー年の1926年にちなんだネーミングの1.5Lフォーミュラマシンである。

1926年4月25日のタルガ・フローリオでそのティーポ26がデビューを飾った。アルフィエーリの隣には、マセラティ社のメカニックとして長く活躍することになるグエリーノ・ベルトッキが座った。1492ccの直列8気筒から120ps/5300r.p.m.を発揮するゼッケンナンバー5は、2台のブガッティとゴールライン直前まで争って遂にクラス優勝、総合8位。初参加にも関わらず素晴らしい勝利を挙げた。

それからは世界中のジェントルマンドライバーから注文が殺到し、彼らは夜を徹してマシンの製造、そして世界各地へのレースへの参戦で大忙しとなった。まさに、この1926年におけるたった1日の出来事によって、マセラティの名声は世界に轟いた。

世界情勢の変化とオルシ家への事業継承

その後、戦争、世界恐慌などに兄弟達は翻弄される。マセラティは1934年には年間16台のレースカーを販売したが、1936年には深刻な不景気から年間9台へと落ち込んでいった。マセラティ兄弟達も戦時の色が濃くなり、持ち前の技術だけでなく、事業運営の為の資本力が必要なことを感じていた。

一方、モデナに一大財閥を立ち上げたアドルフォ・オルシはマセラティ兄弟達の持つスパークプラグなどに関する技術力、そしてカーレースにおける勝利の持つ宣伝力をよく理解していた。兄弟達の思いをよく知るジャーナリストの仲介により両社は交渉を始め、1937年にマセラティ買収の契約が締結された。

マセラティ兄弟達へは1947年まで、10年間の技術供与が求められ、オルシファミリーはマセラティに関する全ての事業を引き継いだ。兄弟達はレースカー、そしてA61500をはじめとする新規事業ロードカーの企画開発、製造を主導し、1939年にはボローニャからモデナのチーロ・メノッティ通りに面したオルシファミリーの工場内へと拠点を移した。ここが現在まで続くマセラティの本社工場となった。

マセラティ兄弟の歴史に幕

1940年代は第二次大戦と戦後の混乱期であり、オルシファミリーにとっても厳しい時期であった。イタリアでは、自動車事業のみならず全ての産業において深刻な資材不足に見舞われた。オルシファミリーの経営環境も厳しく、また兄弟達も高齢となっていたため、1947年に10年間のコンサルタント契約が終了と共に、自らの小規模なファクトリーOSCAを設立し、マセラティからは離れることとなった。しかし、両者の関係が悪化したワケでもなく、その後も技術交流は続いた。

戦後のレースで大活躍したA6GCSは兄弟達が関与した最後のマシンと言われ、ヨーロッパや北米のレースシーンで大活躍した。マセラティは110周年の長い歴史を持つブランドであり、その起源はレースにある。世界のライバル達が目標とした頂点のレースコンストラクターというヘリテイジを持つブランドがマセラティなのだ。

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